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うみねこ通信 No.252 令和2年6月号

推理小説と麻酔薬
- クロロホルムの真相 -

麻酔科部長 大友 教暁

「趣味は何ですか?」と聞かれたら、「読書です。」と答えることにしています。寝る前に1ページでも読まないと何となく落ち着かない、という感じなので、読書は趣味というより、生活の一部になっているような気がします。いわゆる濫読傾向ですが、一番読むことが多いのは推理小説でしょうか。小学生の頃に江戸川乱歩の少年探偵団シリーズにはまり、その後、コナンドイルやアガサクリスティーへと続いて行きました。最近は有栖川有栖や米澤穂信を好んで読んでいます。

では、「推理小説・ミステリー・サスペンス」と「麻酔」から連想されるものは何でしょう?テレビドラマなどでも時々名前を聞く薬品、「クロロホルム」ではないでしょうか? “クロロホルムで眠らせて”というフレーズはとても有名だと思います。クロロホルムを布などに染み込ませて口に充てがうことで、人を眠らせることが本当にできるのでしょうか?最初に答えを言いますと、麻酔薬の作用という観点からは、不可能です。今回は推理小説好きの麻酔科医の立場からクロロホルムの歴史と小説への登場、そして、何故不可能なのか、ということをお話ししたいと思います。

クロロホルムは1831年に発見され、1847年の春にHolmes Cooteが聖バーソロミュー病院(通称“バーツ”)で初めて人体に使用しています。本格的に臨床応用したのは、同じ1847年の11月にクロロホルム麻酔を行なった産科医のJames Young Simpsonでした。彼は主に無痛分娩にクロロホルムを使用したようです。事実、1853年と1857年にビクトリア女王の無痛分娩に使用されています(麻酔を行なったのはSimpsonではありませんでしたが)。しかし肝臓への障害が強い事と不整脈を起こしやすい事などから、新しい麻酔薬の登場と共に臨床麻酔の舞台ではその役目を終えました。

シャーロックホームズの生みの親であるコナンドイルは、エジンバラ大学の教授であるSimpsonの講義を受けていたそうです。講義の内容まではわかりませんが、彼の著書である“シャーロックホームズ最後の挨拶”にはクロロホルムが登場します。講義の影響があったのかな?と思いたくなります。あくまで個人的な推測ですが、全世界に愛読者を持つホームズシリーズにクロロホルムが登場した事が、クロロホルムが現在でも有名(悪名?)である一因であり、人を眠らせる時に“クロロホルムで”と言ってしまえば、余計な説明が不必要で便利、という状況が出来上がったのではないでしょうか。ちなみにHolmes Cooteが初めて人体にクロロホルムを使用した場所“バーツ”、はホームズと助手のワトソンの出会いの場であり、また、ワトソンは“バーツ”に勤務経験がある設定になっています。シャーロックホームズとクロロホルムの深い関係を感じます。

次に、一般的に吸入麻酔薬がどの様に効果を表すのかを説明しましょう。読んで字の如く、クロロホルムに限らず吸入麻酔薬は、息をして薬を吸ってもらい、体に取り込まれることで効果を発揮します。繰り返し吸ってもらう事で、肺の中の吸入麻酔薬の濃度が上がります。吸入麻酔薬は、肺で血液に溶け、血液とともに肺から心臓そして中枢神経に運ばれ、そこで効果を発揮します。ここで、吸入麻酔薬の特徴として覚えて頂きたいのは、①肺が充分に薬で満たされてから効果を発揮する、②血液に溶けやすい薬は肺を満たしにくい、の2点です。

では、布に染み込ませたクロロホルムを嗅いで一瞬で意識を失う、という設定はどこに無理があるのでしょうか。成人の一回に呼吸する量は約500ml、全肺気量(肺の中の空気の量)が約4500mlLとすると、単純に考えても9回は呼吸しなければ全部の肺に行き渡らない事になります。高い濃度で深呼吸をすれば、もう少し回数を減らせそうですが、布に染み込ませた程度では、あまり濃度は高くならないと予想されます。低い濃度のクロロホルムを一回吸っただけでは、①を満たす事が出来ず、到底、意識を失う事は無いと考えられます。また、高い濃度で深呼吸をしたとしても、クロロホルムは現在使われている吸入麻酔薬に比べて、かなり血液に溶けやすい性質を持っているので、②の理由から肺内の濃度が上がるには時間が必要となり、やはり①を満たす事が出来ません。仮に薬の効果で意識を混濁させる事に成功したとしても、血圧は低下し、呼吸が抑制され、低酸素状態を引き起こして生命の危機をもたらす可能性が高くなります。

ただし、麻酔薬の作用とは全く別の観点から、意識を失う可能性はゼロではありません。急に背後から口を覆われてびっくりしただけで気を失うことも、絶対にないとは言い切れないからです。この場合も命に関わるかなり危険な状態となる事が予想されます。急に意識を失うという事は普通ならあり得ない事なのです。

最後になりますが、推理小説などは、あくまでもフィクションで、話の流れの中で“意識を失わせる”という事が重要になる場合が多々あります。なので、個人的には「クロロホルムで眠らせて」というフレーズが出てきても、それはそれとして、楽しく読みたいと思っています。余談ですが、名探偵コナンに登場する、「腕時計型麻酔銃」を羨ましく思っている麻酔科医は自分だけではないと思います(笑)


~お詫びと訂正について~
本文中に「シャーロックホームズの生みの親であるコナンドイルは、エジンバラ大学の教授であるSimpsonの講義を受けていたそうです。」との記載がありますが、Simpsonは1870年に亡くなっており、1876年にエジンバラ大学医学部に進学したドイルが講義を受けることは不可能でした。お詫びして訂正いたします。ただし、ドイルが在学中にクロロホルムについての知識を得た可能性が高いことには変わりがないと考えます。
令和5年2月20日
 

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